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聖アタナシオ司教教会博士  St. Athanasius E . D.        記念日 5月 2日



 堅信の秘跡を受けてキリストの兵士となった信者は、己の信仰の為、力を尽くして闘わねばならぬ。ただしこの世の兵士の如く武器を用いるのではない、各自の能力に応じて、或いは学問により、或いは祈りにより、或いは迫害の時にも信仰を宣言する事により闘うのである。聖アタナシオの如きはかかるキリストの兵士として、最も勇ましく、最も世にあらわれた一人であった。この聖人は293年、エジプトのアレクサンドリアに生まれた。両親はギリシャ人ながら聖教を奉じていたので、彼もキリスト教に従って育てられ、また学校教育も十分に授けられた。その上彼は青年の頃折々荒れ野に隠遁者達を訪ね、その立派な模範を見、有益な勧めを聞きなどした為、一層熱烈な信仰の念を養われたのであった。

 やがて彼はアレクサンドリア司教の秘書役に選ばれ、当時起こったアリオ派の異端に対し、共に憂いを分かつ身となった。その邪説をはじめたアリオは、これも同じアレクサンドリアにいて、救い主イエズスに関し、聖会の信仰と異なった事を教え、殊に、天主御父は永遠の御者であるが、天主の第二位なるイエズスは御父に創造された限りある者であるなどと説いたのである。それ故救世その他の点について彼が正統の教えと意見を異にするに至ったのも、また当然の成り行きであった。

 このアリオの異端はたちまち燎原の火の如く世間に広まった。これを見てはアレクサンドリアの司教たる者到底黙視する事が出来ない。彼は教敵と一戦を交える決意をなし、秘書アタナシオに協力を求めた。アタナシオは司教の意を体し、奮然起って活躍を始めた。そして間もなく異端との論争の総帥各になったのである。
 結局アリオの教えは326年、かの有名な二ケア公会議に於いて邪説であると決定、排撃されたが、それには何よりもこのアタナシオの奮闘があずかって力あった。されば彼が教敵から目の敵にされたのも不思議ではない、遂に彼等の二人は重臣に取り入ってコンスタンチノ大帝の心に、アタナシオに対する疑惑を抱かしむる事に成功した。
 328年、アレクサンドリアの司教が死去すると、アタナシオは衆人の一致推薦を受けてその後任となったが、教敵はその後も策動を休めず、破廉恥極まる虚偽讒謗や、あらゆる奸計を弄して彼を陥れるに努め、その結果大帝は非道にも何の取り調べも行わずして、彼を免職追放されたのである。
 国外に追われたアタナシオは、ドイツのトリールに行き、その地の司教マクシミノの許に身を寄せた。マクシミノは彼に同情して快く彼を庇護してくれた。その時二人の間に結ばれた友情は、終生変わることはなかった。
 彼の流惨の生活は9年にして終わりを告げた。というのは337年にコンスタンチノ大帝が崩ぜられ、その皇子コンスタンチオが即位されるや、彼をアレクサンドリアに召し還されたからである。しかし教敵はなおも執拗に彼を葬り去るべく暗躍を続け、二年の後アタナシオは又しても追放の刑に処せられたのである。
 その時異端側の会議ではいち早くアタナシオの免職を発表したが、教皇ユリオは彼を支持し、サルディスに於ける公会議側の集会で彼の免職など無根の旨を宣言した。しかし教敵は皇帝の権力に縋って無理無体に彼の免職と再び9年間の追放とを実現したのであった。
 再度彼が追放の刑を解かれてアレクサンドリアに帰る事を許されたのは、347年の事であった。彼はそれから約十年同市に活躍をほしいままにすることが出来た。が、その間にこれまで東方にのみ流布していた異端が、西方諸国にも歓迎され始めたので、アタナシオは必死になって之が防止に奮闘せねばならなかった。多くの司教、荒れ野の隠者、修道者、信者達は彼を支持した。
 アタナシオの書簡は至る所で読まれた。それは信者達には信仰をかためる助けになった。けれども教敵にはこの上もない腹立たしいものに相違なかった。というのは異端の次第に衰えるべき所以がそこに記してあったからである。教敵は遂にシリアノという大将に頼んで彼の殺害を企てるに至った。シリアノは手勢の兵を率いてアレクサンドリアの司教座聖堂に押し入った。しかしアタナシオは幸いにも九死に一生を得て荒れ野に逃れる事が出来たのである。
 荒れ野の隠者や修道者達は喜んで彼をかくまってくれた。彼はそこで多くの書物を著した。教敵は四方八方に探索の手を伸ばしたが、とうとう彼を発見する事が出来なかった。
 361年コンスタンチオ皇帝が崩じてユリアノ皇帝が後を襲うと、アタナシオを始め今まで流謫の憂き目を見ていた司教達一同に対し赦免の御沙汰あり、彼は又もアレクサンドリアに帰るや、会議を招集してもう一度アリオの教えの邪説なることを断定宣言した。その異端が勢力を失ったのは実にこの時かれである。
 ユリアノ皇帝はアリオ派に心を傾けて聖会を迫害した。されば先に自らアタナシオを召し還したにも拘わらず、彼の活動、殊に彼が聖会の為皇帝を諫めた事を一方ならず憤り、間もなく四度目の追放を仰せつけられた。アタナシオはまた荒れ野の隠修士の許に身を寄せた。何故なら敵は再び彼の生命を奪うべく捜索を始めていたからである。
 その頃のことであった。ある夕方彼が船に乗ってナイル川を下って行くと、彼を捜索中の兵士達の船が登ってきた。アタナシオの船の人々はひどく心配したが、当人は平気なもので、わざとすれすれの所を通らせた。そして兵士達が「お前達はアタナシオを見かけなかったか?」と尋ねると、彼は自分で澄まして答えた。
「ええ、見ました」
「遠くでか?」
「いいえ、近くでですよ、お急ぎなさい。」
そして彼等の船はそのまますれ違ったのである。
 その内にパンモンという修院長が吉報をもたらした。それは聖会の迫害者ユリアノ皇帝が、ペルシャで敵の矢に当たって363年6月26日に崩御あったというのである。之は事実であった。そして新たに帝位に昇ったのは公教を奉ずるヨヴィアノであった。彼はアタナシオを深く敬い、早速追放を解いたばかりか、絶えず彼を害せんとする教敵の魔手から保護してくれた。が、残念なことにこの皇帝は翌364年2月に崩じ、その後継者は公教信者であったものの、之は西方諸国を治め、東方を支配したのはその兄弟でアリオ教徒であるヴァレンスであったから翌年早くもアタナシオを始め、ヨヴィアノに召し還えされた多くの司教達は、またまた配所の月を眺めねばならぬ身となった。アタナシオにとっては実に之で五度目の追放である。
 しかし彼は今度は遠くへ行かず、アレクサンドリアの近くに侘び住まいをしている内に、四ヶ月経つと刑を赦され、天下晴れて同市に帰ることが出来た。終始変わらず彼を仰いでいた市の全信徒は、さながら凱旋将軍を迎える如く歓呼して出迎えた。そして教敵にこの聖司教を害されぬよう、警戒を怠らなかった。
 それからはアタナシオの上にも平和な月日が続いた。彼は艱難刻苦、聖会の為に奮闘し、遂に勝利を獲得した。かれは教会をよく治め、聖書、克己修道に関する書物を著した。彼の勢力は偉大なもので、時の教皇ダマソさえ彼の忠告を容れたという。功成り名遂げたアタナシオは373年5月2日の深夜帰天した。信者達は直ちに彼を聖人として崇め、聖会は彼に教会博士を贈った。

教訓

 天主の忠実な僕は、しばしば迫害されて大いに苦しまねばならぬことがある。五度も追放を受け、再三生命の危険に臨んだ聖アタナシオの如きはそのよい実例と言えよう。我等も苦難に逢う場合には、いたずらに懼れることなく、天主に硬い信頼を献げよう。天主を愛し奉る者には、何事も最善の結果の恵まれぬことはないのである。